展望

大阪市福島区は都心部に近い大阪北部に位置し、面積20平方メート ル、人口54800人、世帯数23743世帯。交通では、国道2号線・阪神神 戸線などの神戸方面へのアクセス道路が区のほぼ中央を通り、なにわ筋・あみだ池筋などの幹線道路が縦横に走る交通環境を有する地区と なっています。鉄道ではJR環状線、野田阪神を起点とする地下鉄千日前線、平成20 開通のJR東西線、阪神本線を有し主に大阪東部・京阪神方面への交通 の便が良好です。産業では、主に機械部品や工具の製造にたずさわる中小の工場や企業が多く、大正時代に松下電気が改良ソケット製造で創業した土地とし ても有名です。又、古くは主要な漁業場だったこともあり、交通の便が整っているこ とも手伝って魚介類の卸がさかんに行われており、一部青果物の流通もあることから大阪福島の顔となっている大阪市中央卸売市場を有する大阪の台所としての面も見せています。

 

「福島」の地名は太宰府 に流される時にこの土地 に立ち寄った菅原道真公 により名付けられたとさ れています。古くは湿地帯だったこの 土地に荘園が開かれ、 江戸時代には安治川や堂 島川の大規模な工事がおこなわれ、新地造成など がなされたとされていま す。現在の福島区は、昭和1841日にそれ以前の大阪15区制から22 区制に改められた時に旧西淀川区の海老江・鷲洲、旧此花区の福島・

野田、そして北区の一部の地区が一つとなって誕生しました。当時は戦時中で、各種の疎開措置の緊急実施が行われる等の慌ただしい中での誕生でした。その後の空襲による戦災や昭和199月のジェーン台風等の災難の後、昭和30年代の都市施設の復興と経済活動の活性化で高度経済成長期を 迎え、家電品や自動車のブームを迎えたおりに福島区には自動車関連の卸.販売代理店や修理工場などが特に集中し、現在でも野田阪神近 くの機械工具街や中小金属加工工場の数にその頃の名残がみえます。

大阪の幹線道路のひとつ、 なにわ筋を中津方面に走 り、中之島を抜けて堂島川 を渡ると島区にはいりま す。ここ堂島川にかかる玉 江橋北詰すぐの所に福沢諭 吉がこの地に誕生したことを記念して建てられた碑が あります。福沢諭吉は福島1丁目にあた るこの地に天保512月(18351月)、九州中津藩奥平家家臣福沢百助の息子として生まれ、1 半後藩地の九州中津に移るまで蔵屋敷のあったこの土地で過ごしました。その後安政元年(1854年)長崎に渡り1年後に来阪、大阪の蔵屋 敷に入ることになります。その後、緒方洪庵の「適塾」に入門、この 間の安政2年から5年(1855-1858年)にこの地で学んだことがその 後の人間形成に多大な影響となったことが後の業績で証明されたと言 えましょう。その業績を記念して慶応義塾大学の関係者によって金属製円筒形の最 初の碑が建てられたのは、昭和411月のことでした。しかし戦時中の金属品供出の為にこの碑は解体されましたが、昭和291月に鳩が羽を広げた形の石で作られた物として再建、その後この土地の工事の 事情で移転されましたが、昭和601月に新1万円札が発行されたのを機に現在の元の場所に新しい装いで造られました。中津藩蔵屋敷後の碑、そして有名な「天ハ人ノ上ニ 人ヲ造ラズ 人ノ下ニ 人ヲ造ラズ」の文字が刻まれた碑とともに堂島川に向かって 静かに立っています。

浄正橋の石碑
浄正橋の石碑

さて、なにわ筋をさらに進 み、浄正橋交差点の手前の福島公設市場(現在はピコ の愛称で呼ばれている)の 脇の歩道上に一つの橋名柱 が半分地中に埋もれた状態で残っています。そこには 「浄正橋」と掘られていま す。浄正橋とは、昭和初期まで 現在は車道となっているこ の前を流れていた曽根崎川(通称しじみ川)に架けられていた長さ15 m・幅6mの橋でした。現在のこの付近のなにわ筋のある場所には当時浄 正橋筋と言う歓楽街があり、大正時代末期から昭和初期の間には活動 写真などを見せる映画館や寄席の小屋などがあり、すぐ西の聖天通りともども大阪のにぎわいの中心地となっていました。聖天通りはJR 島駅より、「聖天さん」で知られる如意山了徳院までの間にあった商 店街としてにぎわっていた所です。当時「聖天さん」の東側にあった聖天川の上に建てられていた聖天市場では、近くの農家が持ち込む野菜や大阪湾の魚貝類が売られ、参拝の行き帰りの買物客の人気を集め ていました。現在では、曽根崎川も聖天川も埋め立てられ道となっていますが、商 店街の名前などが残っています。福島にはこうして埋め立てられた大小の川や架かっていた橋の碑や橋 柱がいくつかあり、交差点の名前などにその頃の名残を残している所 もいくつか見られます。