我がライオンズ人物伝(2)      長濵 正臣  追憶    「第二の故郷で過ごした日々」

入学式写真
入学式写真

 

 『わがライオンズ人物伝』 何とも仰々しいタイトルに戸惑いながら平々凡々とした過ぎし日々を思い起こし、勇気をふるってキーボードを叩いてみました。遅ればせながらも秋めいてきた11月9日から10日にかけて小学校(国民学校)時代の同窓会がありました。今年は1年毎に行われている1泊の小旅行です。行先は 湖東三山をめぐって彦根・長浜方面。卒業してちょうど60年目の今年、物故者もすでに18名を数えました。70歳を過ぎ、社会の第一線を退いて1日の大半 を趣味の時間として過ごす人が殆どとは言うものの、なかには年老いた親の介護に追われている人、また自身の体調が優れず病院通いや子供たちの介護を受けて いる人など、それぞれの事情で参加できなった人が多く、今回の参加者は21名にとどまってしまいました。それでも元気で再会できたことを喜び合い、瞬時に して60数年前にタイムスリップ、夜が更けるまで時間の過ぎるのも忘れて楽しい一夜を過ごさせていただきました。 

 

一心に 生きて紅葉の 頃となる


① 伊賀上野城(別名白鳳城)

伊賀上野城堀
伊賀上野城堀

私は、昭和13年現住地で生まれましたが、敗色も色濃くなった昭和19年12月、父の故郷、三重県上野市(現伊賀市)に疎開しました。年末のあわただしい時 節でもあり、家財などはそのままに着の身着のままでの疎開となりました。翌20年3月初旬、疎開先へ送る家財の整理、手配のため両親は幼い私と妹を連れて 大阪に戻りました。荷物の整理も一段落した直後、同月13日深夜から14日未明にかけてB29爆撃機の大編隊による大空襲に遭遇。私たちは父の指示に従って避難。母は妹を背中負い、私の手を引き、もう一方の手に持てるだけの荷物を持ち、焼夷弾の業火に追われながらただひたすらあみだ池筋を中津・十三方面に ひた走り、ようやくにして淀川堤までたどり着くことが出来、かろうじて命拾いしました。堤防の上で日を過ごし、空襲による大火災も峠を越えた頃を見計らって福島に戻りましたが辺り一面焼け野原。道路わきに放置されたままの黒こげの遺体累々。言葉や文字ではとても表現しきれない痛ましい光景は生涯脳裏に焼き 付いて離れることはないでしょう。我が家も全焼。家財など荷物は全て灰塵と化してしまったことは言うまでもありません。私たちは奇跡的に焼け残っていた福島小学校に身を寄せ、そこで父とも再会、干からびたコッペパンと水をもらいなんとか空腹を凌ぎました。大阪大空襲、原爆投下そして終戦と続く大きな歴史的 出来事がいくつも重なったこの年ほど忘れがたい年は今後ともないと思います。

 

ささくれの 指いとほしき 終戦日


② 伊賀上野城の石垣

伊賀上野城
伊賀上野城

 

20年4月、私は疎開先の国民学校に入学しました。上野市街から少し離れたひなびた村里にポツンと立つ全校生徒400余名の当時としてはそれほど大きくもない学校でした。今では、明治時代に建てられた古めかしくも懐かしい木造校舎は既になく、鉄筋コンクリートの瀟洒な建物に建て替えられています。創立106年目を迎えた今年、少子化の影響でしょうか在校生は僅か160余名だそうです。


③ 松尾芭蕉生家跡

松尾芭蕉生家
松尾芭蕉生家

 

 私は中学校を卒業するまでの9年間余をこの伊賀の地で過ごすこととなりました。私にとって第二の故郷と言ってもいい伊賀上野は、高石垣で有名な伊賀上野城 (白鳳城)を中心にその城下町として開かれた町です。これといった名だたる産業はありませんが伊賀焼、組紐などが伝統工芸品として今も盛んに生産されてい ます。また、文芸の面に目を向ければ江戸時代前期、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、俳聖として世界的にも高名な俳人松尾芭蕉生誕の地として広く知られています。そして「芭蕉翁生家」をはじめ処女句集『貝おほひ』を執筆した「釣月軒」、「故郷塚」、芭蕉五庵のうち唯一現存する「みのむし庵」等々その旧跡は今なお多く残されています。また、昭和17年には芭蕉翁生誕300年を記念して上野城址に旅に生涯を送った漂泊の詩人芭蕉翁の旅 姿を模した俳聖殿が建設されました。旅人と建築を一つのものとして表現した日本でも類例のないこの建物は建築美術の上でも傑作と言われ、このたび国の重要文化財に指定されることにもなりました。内部には伊賀焼で作られた等身大の芭蕉座像が安置され、毎年翁の忌日に当たる10月12日(桃青忌・時雨忌)には 芭蕉祭が催され、全国から多くの俳句愛好家を集め、顕詠俳句会をはじめ数々の行事が盛大に行われています。こうした土地柄ということも相まって小学校高学年ともなると国語の時間には俳句に関する授業が多く取り入れられていました。なかでも、顕詠俳句会を控えた夏休みには必ず俳句の宿題が課せられ、優秀作品が句会に応募されていましたので先生方の指導も一段と熱を帯びていたのが今では懐かしく思い起こされます。

 

組まれゆく 組み紐秋の 色となり


④ みのむし亭

みのむし亭
みのむし亭

 70年余歩んできた人生の中で鮮やかに記憶されているのはやはり小学校の頃の出来事です。そのなかでも最も印象に残っているのは不思議と一年生の部分です。茶の実、どんぐり拾い、桑の皮むき、イナゴ取り、B29の群れ、空襲警報、防空ずきん、艦載機が突然飛んできて机の下にもぐりこんだこと、防空壕、大阪から 黒こげの手紙が飛んできたこと、松根油工場、教育勅語、これらはこの年を最後として2度と繰り返されることのなかった出来事であったからです。

 

グラマンも B29も来ずなりて 日本の空 ただ青かりきる


上野場内の俳聖殿
上野場内の俳聖殿

 幸いにして私が疎開した村は戦争による大きな破壊をまぬがれました。そして大きく変貌していく戦後の社会の中で人々は平和と繁栄と幸せを求めて急激な進歩発展を成し遂げましたが、反面、環境問題をはじめとする数々の矛盾や歪がみも背負うこととなりました。私の第二の故郷、伊賀の地は関西経済圏と中京経済圏との中間 的な、どっちつかずの位置に立地しているためか大きな工場もさほど建たず、住宅地などの乱開発もあまりされず今もなお昔の自然がそのままに多く残されてい ます。私は年に数回、墓参を兼ねて帰郷しますがその度にこの素晴らしく美しい自然の中へ帰って行ける自分の幸せをかみしめています。この幸せな気分がこれ からも末長く続くことを念じる今日この頃です。